「知る、ということ。わかる、ということ。」

今、白洲正子に夢中になっています。

恥ずかしながら、これまでほとんど、
その作品を読んだことがなかったのですが、

先日、旧白洲邸「武相荘」に訪れ、
感化されたことをきっかけに、改めて、読み始めたのです。

↓↓↓
暮らしに、人生に、こんなにもこだわり抜いて生きた人がいたなんて。


凝り性な私は、
移動中も、待ち時間も、
白洲正子。


彼女の場合、暮らしぶりも
言葉に残してくださっているので、

食事のスタイルや、もの選び、
なんてことも真似してみたり。


全く興味のない夫にも、
熱く語る始末です。笑


さて、作品を読んでいて、
痛感させられるのは、

自分は、まだまだ何も知らず、
どこにも至っていないのだなぁということ。


40年近く生きてきて、
多少なりとも、何かを学び、
自分の形を見出してきたつもりでいたけれど、

白洲正子の言葉の深さと、
圧倒的な世界観に触れて、

これまで、私は、何を見て、
何になった気でいたのだろうかと、
ガツンと、打ちのめされているのです。


随筆の多くは、
日本の旅先で見聞きしたことを、
綴ったものに違いないのに、

例えば、そこに載っている
地名一つ、すっと入ってこない。


言わずもがな、綴られたことの
真意が「わかる」なんて、
どれだけ遠い先のことなのかと。

途方に暮れています。


そんな調子ですから、本を1冊読むのにも、
ものすごく時間がかかる。


時に、検索しながら、

時に、自分の拙い経験や記憶をたどりながら、

時に、気になることを手元に書き留めながら、

読み進めることになるからです。


一方で、白洲正子が愛した旅の醍醐味は、
「道草」だと言いますから、

私のような未熟者が、
スムーズに読み進められないことも、
案外、狙い通りなのかも知れません。


スムーズに進まないというのは、

気になるものが見つかった、

ということでもありますから。


気になるの先にある、
知る、ということ、

さらには、自分の人生をともなって、
それが、わかる、ということ。


その過程すらも、読者に、
味わい、愉しんでもらうべく、
仕立てているのかも知れません。


本までも、道草なしには、読めないように。


綴られた内容に、打ちのめされつつも、

同時に、現れたのは、
その真意に迫っていこうじゃないか、と。
ワクワクしている自分。

ここから、新たな扉が開いていく予感がしています。




かまくらのおと
白河 晃子


 

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