「分からない。だけど惹かれる“お能”の世界」
- 2022-06-05
- ひとのおと
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今、また、お能にハマっている。
暇さえあれば、家事をほったらかして、
お能に関することを調べている有様だ。
また、というのは、
以前も入れ込んでいた時期があったから。
ちょうど、コロナがやってくる前の年だ。
残念ながら、この1〜2年は、
舞台から離れざるを得なかったのだが、
今年になって、白洲正子さんの本を通じて、
その高揚を思い出し、鑑賞欲が再燃したのだ。
先日は、千駄ヶ谷にある
国立能楽堂を訪れていた。
(国立能楽堂の広間の天井。細かい格子が美しく、いつまでも眺めていられそうだ)
どこからともなく漂ってくる
お香の香りに、胸が高鳴る。
この瞬間から、お能の世界に誘われていく。
演目は、大曲「道成寺」だ。
開演を知らせるブザーが鳴り止むと、
観客はいそいそと席に収まっていき、
場内には、ピンと空気が張り詰める。
最初に、舞台に現れるのは、
能囃子(笛・小鼓・大鼓・太鼓)と、
地謡(詞章の合唱)だ。
能囃子は「橋がかり」から、
地謡は、舞台右奥の「切戸口」から、
厳かな面持ちで現れ、それぞれの持ち場についていくのだ。
再び場が鎮まったと思うやいなや、
力強い笛の吹き出しが響きわたり、戦慄が走る。
見所の意識は、自ずから、
橋がかりに集まっていく。
息を潜めて待っていると、
ふわっと揚幕が上がる。
いよいよ、ワキ方(能役者)の登場だ。
一段と緊張が高まる瞬間。
固唾を呑んで待つ。
能舞台の幕開けである。
(画像は友枝家の能イメージ動画「道成寺」からお借りしました)
私が初めてお能を観たのは、
高校生の時だったように思う。
学習の一環で、半蔵門の国立劇場に訪れ、
学年全員でお能を鑑賞したと記憶しているが、
演目は全く覚えていない。
覚えているのは、
私は、のっけから寝入ってしまい、
気づけば終演していた、ということぐらいだ。
残念である。
私が、意思を持ってお能を見始めたのは、
30代半ばのことだ。
その時に感じた衝撃は、忘れられない。
それは、
“ 全く分からない…でも、
私の内側でなにかが疼いている ”
という深い感覚だった。
私は、これまで、様々な演劇、
例えば、ミュージカルやバレエなどは、
数多く観てきた方だと思うのだが、
能舞台は、それらとは、
何もかも違っていたのだ。
簡素なのに奥行きがあり、
優美で、残酷で、難解だった。
分からない…。
でも、だからこそ、強烈に惹かれた。
私は、新しい世界に出会った、という悦びに満ちていた。
「もっと知りたい」と、思ったのだ。
(画像は友枝家の能イメージ動画「道成寺」からお借りしました)
そして、その感覚は、
今もそのまま、私の中にある。
いまだよく分からないのに、強烈に惹かれるのだ。
そんなお能の正体とは、一体何なのだろう。
その答えのひとつを、最近、
馬場あき子先生の著書に見たように思う。
現代のお能の基礎を築いたのは、
観阿弥・世阿弥親子であり、
世阿弥は、一座の秘伝の書として
「風姿花伝」を著した人物であることは言うまでもないが、
馬場あき子先生の著書
「古典を読む 風姿花伝」に
次のような考察が書かれていた。
申楽芸の革命
馬場あき子「古典を読む 風姿花伝」
世阿弥たちの一座はこれによると、
申楽の芸統を、いわゆる
滑稽・物真似を中心としたものに見ず、
風流を仲立ちとした
遊宴の諸芸に溯らせようとする
意図を持っていたと見ることができる。
〜 中略 〜
これはいわば古い申楽芸に、
すでに一つの革命を起こしてしまったことを
物語るのではなかろうか。
ただ見物を面白がらせればよいのではなく、
その見物の上層部、いわゆる
「貴人上方様(きじんじょうほうさま)」
といわれる人々の鑑賞に耐える芸が、
第一目標とされているのであり、
一般大衆の趣味の向上は
しぜんの求めであることを
自信を持って見抜いていたと言えるだろう。
芸術は低きへ迎合するのではなく、
低い見物も高みへ引き上げてゆこうとする。
芸を媒介とした
一種の指導意識のようなものが
働いていたのではないか
とさえ思われる所である。
岩波現代文庫
申楽(さるがく)というのは、
お能の根元である。
なるほど。
お能の正体が、
上層階級の鑑賞に耐えうる芸術の究極であり、
また同時に、一般大衆の意識を引き上げる役割そのものであるとするなら、
私自身も、その意思によって、
知らぬ間に、運ばれていたのかもしれない。
そうだとすれば、
「分からないのに、強烈に惹かれる」
という感覚のみに突き動かされて、
お能の世界にいどもうとする自分自身に、妙に納得するのであった。
先月は、なんと、3回も観にいった。
演目は次の通り。
喜多流・友枝昭世氏「隅田川」
喜多流・友枝雄人氏「道成寺」
観世流・坂井音雅氏「杜若」
観世流・下平克宏氏「藤戸」
もちろん、能曲と同時に、狂言も観ており、
その舞台も、また素晴らしいのであるが、
そのことについては、また別の機会に触れることにしたい。
友枝昭世氏は、人間国宝であり、
白洲正子さんが最後に陶酔した能楽師、友枝喜久夫氏の長男である。
お能には、5つの流派があり、
これまで3つの流派の能舞台を観に行ったことがあるが、
今のところ、私は、喜多流が好きだ。
喜多流は、5つの流派の中でも、
特に、武士気質が強いと言われるようで、
素朴ながら研ぎ澄まされた芸風に、
力強い美しさを感じるように思う。
お能には興味があるけれど、
何から観てよいか分からない、という方には、
喜多能楽堂、あるいは、友枝家の能の
演目から始めてみることをお勧めする。
また、チケットを手配したなら、
できるだけ予習はした方が良いと思う。
古典や歴史に精通している人ならまだしも、
素人が予備知識なしに飛び込むには、難解すぎる。
能舞台の前に、丁寧な「解説」をしてくださる会も増えているようだが、
それがない場合、突然、演目が始まるので、
登場人物や大まかなストーリーを知っていた方が安心だ。
今はネット上にも、具体的な曲の解説があり、
YouTubeには、舞台の様子が、そのままアップされている場合もあるので、とても有難い。
私自身も、今年の後半、
楽しみにしている演目があるので、
下調べに余念がない。
それによって、家事が止まっているのだから、
家族にとっては、甚だ迷惑かもしれないが、
それは、どこかで帳尻を合わせるとして。
この歳になって、入り込めるものがある、
というのは幸せなことだと、つくづく思う。
かまくらのおと
白河 晃子
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