「戸隠参拝〜長野秘境旅その2〜」

打ちのめされるほど、心に響いた景色というのは、そう容易く言葉にできないものです。

戸隠に訪れて1週間が経つのですが、
写真を見てはため息をつき、その時に感じた言葉にならない思いを振り返っていました。

戸隠参拝の前日には、善光寺に訪れていました。

その時のことは、早々に、コラムに書いたのですが、しかし、戸隠については、筆が進まないのです。

戸隠と善光寺、何が違うのだろうと思った時に一つ気づいたのは、

「戸隠は人の手が及ばない世界」
「善光寺は人の手によって作られた世界」

そのような違いを、肌で感じていたということでした。
 

 
言わずもがな、善光寺は、善光寺で、とても素晴らしい参拝でした。

詳しい方に伺うと、コロナ禍の御開帳とあって、例年とは比べものにならないほどの空き具合だったそうですが、それでも七年に一度のインパクトは大きく、それなりに人で賑わっているように見えました。

広大な敷地には、荘厳な門や御堂が立ち並び、
ここに訪れたら記念にこれをするという決まった流れもあります。

祭りの賑わいや歴史も感じることができ、気持ちが高揚しました。

ご開帳記念「特別御朱印」なんてものまで求めてしまったほどです。

ただ、その荘厳さや順序立てられた参拝が、誤解を恐れずに言えば、精巧に作られた印象が強く「出来すぎている」ようにも感じられたのです。
 

(戸隠山。その険しい山肌がくっきり見えるほど快晴の1日でした。)

 
そこに来て、翌日の自然に抱かれた戸隠参拝です。 
 
神道と言われる古道を進みながら、宝光社から奥社まで5社を巡るのです。

戸隠にも、もちろん趣ある社や拝殿があるのですが、どれも非常に素朴な作りで、善光寺とは対照的に感じられました。

また、戸隠の社には、それぞれに神様が奉られているのですが、
それとは別に、いにしえからの御神体は、樹齢何百年という木であり、石であり、戸隠山なのです。

信州の雄大な自然に、人の手が介在し得ない美しさを見て、その一部を御神体として、恐れ、崇め、奉ってきた、この国の人々の精神性に、私は身震いがしました。

そして、それらが発する光は圧倒的でした。

戸隠というのは、完全に調和しながらも刻々と変化していくこの秘境の随所に光を見た人が、
後世の人たちもそこに辿り着けるようにと、あくまで「目印」だけを置いてきた歴史のように、私には感じられました。

そして、そこには人の手が遠く及ばない深淵な時間があるからこそ、同時に、容易く言葉にできない、という実感をも抱いたに違いありません。
 

(火之御子社境内にある樹齢約500年の夫婦杉)

 
この日は、宝光社から奥社まで、5〜6キロの道のりを、一貫して歩いて巡礼する、という肯定をたどりました。

何人かの知人からは「バスも使わずに、全肯定を歩くのか?!」とギョッとされましたが、
歩くからこそ感じられるものがあるだろうと思っていましたし、現にそうなりました。

その日は、4月にもかかわらず、汗ばむほどの陽気で、途中から私は上着を脱ぎ捨て、半袖で歩いていたほどでした。

木々の隙間から差し込む太陽の光、鳥の鳴き声や草木の香りを感じながら、歩みを進めていくその道のりは、至福以外の何ものでもありませんでした。

特に印象的だったのは、奥社の参道です。
 

 
奥社は広大な自然林の中にあって、スギの巨木が続く杉並木を、一歩一歩、文字通り、土を踏みしめながら進んでいくのです。

4月末にもかかわらず(しかも、半袖になるほどの陽気だったにもかかわらず)、杉の木の根本にはまだ雪が残っており、それがキラキラと日の光を反射させながら白い道標のように続いていて、とても幻想的でした。

足元は自然のままの土なのですが、苔むしているところや、雪解け水が入り混じっているところがあり、歩くごとに、ぐちょっ、ぐちょっと音がしました。

正直、私は、それを不快に感じていたのですが、しばらく経つとそれにも慣れ、
むしろ、足元の陰気な感じと、空から燦々と降り注ぐ太陽の光のコントラストが、奥社参道の強い印象となって、心に刻まれていきました。
 

 
参道の途中に現れた「随神門」を通ると、空気が一変しました。

ひんやりした、といってしまうと、味気ないのですが、全く違う世界に足を踏み入れたことを全身で感じたのです。

そこからは本当に神の域で、奥社に近づけば近づくほど、雪解け水が流れる音が激しくなっていきました。

杉並木はいよいよ鬱蒼としてきて、それとは対照的に、太陽の木漏れ日がどんどん強くなってきたと思った瞬間、目の前に現れたのは、行き止まりのロープでした。

そう、今回は、最後、奥社までたどり着けなかったのです。
 

 
聞くところによると、今年は雪解けが遅く、まだ、雪崩の危険があるということで、この先が整備されていないようでした。

ただ、このロープに出くわした時の率直な思いは、残念、というものでは決してなく、あぁ今回は、ここまで見せていただけたんだな、という実感でした。

そして、最後までたどり着けなかったという事実にも、また、人の手が介在し得ない域を知ったように思うのです。

この場で、戸隠山に向かって祈りを捧げ、帰路に着くことになりました。
 

(帰り道にいただいたお蕎麦も美しかったな♡)

 
戸隠は、非常にパワフルでした。

人間ができることはつゆ程の小ささであることを知らされたと同時に、戸隠から帰ってきてからは、じわじわと、あの日見た景色が思いおこされ、自分の存在を問い直してくれるように思うのです。

そこに、まだ、まともな答えは見出せていないのですが、小さな花が咲くように、雪解け水がサラサラと流れるように、自分の命もここにあるということを知って、私の中には、ささやかな希望が生まれています。

かまくらのおと
白河 晃子

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