いかに生かされ与えられているのか 〜夏の戸隠参拝〜

その場を離れた後もずっと心に残っている。
そんな景色に出会ったのは昨年の春のことだ。

私は山の中の参道を歩いていた。
200本以上の杉の巨樹が左右に立ち並び、
脇には雪解け水がゴーゴーと音を立てて流れている。

都内に比べ1ヶ月季節が遅いと聞いていたが、
木々の間から陽光が差し込み、汗ばむような陽気だ。

途中で上着を脱ぎ、Tシャツになった。
ふわりと風が抜けていく。

初めて訪れた戸隠参拝。

先生と有志の仲間とともに
朝からすでに三社を巡ってきたが、
さらにこの先には奥社があるのだ。

これまで数え切れないほど多くの人が
祈りと共に踏みしめたであろう一本道を、
ゆっくりと歩きながら、
その景色を心に刻んでいた。

どこからともなく鳥の声が聞こえてくる。
見上げても姿はない。
視線を戻したその時だ。

目の前に現れたのは、
行き止まりのロープだった。

(戸隠 奥社の参道。行く道は途中で閉ざされていた)


その日の朝、長野駅を出立するときに、
バスの案内所で「今年は雪解けが遅れていて、もしかすると最後までは行かれないかもしれない」と聞いていた。

けれど、どこかで期待している自分もいたのだろう。

そうか、ここまでか・・・と思った。

一方で、最後までたどり着けなかったということにも、また意味があるような気がしていた。

普段の暮らしの中では、
親しみやすい自然ばかりを感じているが、
ここには人がたやすく近寄ってはいけない、
厳しい自然の姿も同時に存在しているのだ。

そんなことを思った。

ロープの先には雪がまばらに残り、
木漏れ日に照らされた道が続いている。

その場で戸隠山を拝み、引き返した。

(奥社参道の入り口)


改めてこの地を訪れたのは、数日前のこと。
全国で猛暑日が続く8月頭のことだった。

長野駅を降りた途端、
まとわりつくような熱気に覆われ、
気を失いそうになったが、
心の中は静かな意気込みに溢れていた。

今回は奥社まで参拝することが叶うだろうか。

1年3ヶ月が過ぎていた。

体の記憶とは不思議なものだ。

頭の記憶とは別に、
その場に立った瞬間蘇るものがあるようだ。

バスに揺られ、
宝光社の鳥居前に立った瞬間、
「あぁ戻ってきた」そんな気持ちが込み上げ、
音や温度、匂いなど、あの日感じたものが一斉に思い起こされた。

宝光社から続く神道を歩き、
火之御子社、中社と進んでいく。

前回と同じ道順でも、
全く違うものに感じられるのは、
季節が異なるからだろう。

青空には真っ白な雲が浮かび、
聞こえてくるのは蝉の鳴き声だ。

力強く生い茂る木々が
古道に大きな木陰を作っている。

日向は帽子や日傘なくしては
厳しい暑さだったが、
木陰にそよぐ風はなんとも心地が良かった。

(鏡池と戸隠山)


いよいよ奥社の参道へ。

参道の途中にある
随神門をくぐりしばらく進むと、
前回行き止まりになっていた場所が現れた。

ロープは取り払われ、
すっかり夏の景色に変わっていたが、
あぁ、ここだ・・・とはっきり感じられた。

以前雪が残っていた木々の足元は、
勢いよく伸びた草に覆われている。

降り注ぐ日差しに招かれるように、
その先へ進んでいった。

(随神門。この先約500メートルにわたって200本以上の巨樹の杉並木が続く)

(前回ロープが張られていた場所。例年雪解けの具合を見ながら4月中旬ごろに開山となるようだ)


徐々に道幅は狭くなっていき、
最後は険しい石段が待ち構えていたが、
残る力を振り絞ってのぼりきる。

そろそろ腰を落ち着けたい…
そう思った時に現れたのが、まさに奥社だった。

想像以上にこじんまりとした空間で、
拝殿だけが存在していた。
その社も非常に素朴である。

奥社からは戸隠山の全貌を眺められるような景色が開けているのかと思っていたのだが、
目の前がもうその山肌であることに驚いた。

隣接しているというより、
その一部に食い込むように拝殿が立っているのだ。

頭上に見えるゴツゴツとした岩や緑の木々が、
もう御神体そのものなのだと思うと恐ろしい気持ちになった。

と同時に1年以上の時を経て
奥社まで辿り着けたことに、
じわじわと喜びが湧いてきた。

山道を歩いた先の
爽快感や充実感はもちろんだったが、
前回の参拝もそして今回の参拝も、
始めからこうなるべくして、
何か見えない力によって
運ばれてきたような気がしたのである。

(奥社の拝殿。背後の岩に食い込むように立っている)


普段の生活の中では、
見たい時に見たいものを見て、
欲しい時に欲しいものが手に入るので、
何でもかんでも自分の力で叶えている
という錯覚に陥りがちだが、
それは大きな間違いだ。

戸隠山に対峙すれば、
人がいかに非力で
ちっぽけな存在かを知らされる。

たった一日でも
その麓に身を置いてみれば
天気、タイミング、出会い、体調…
自分の力だけではどうしようもないことばかりだと気付かされるのだ。

けれど、その諸条件が揃わなければ、
戸隠参拝は成り立たないわけであって、
そういう意味で、
自分という人間がいかに生かされ、
与えられているのかということを
深く実感したように思うのであった。

よく戸隠はパワースポットと言われる。
が、残念ながら私には霊感や
スピリチュアル的な能力は全くなく
感覚的にはピンとこないと言うのが正直なところである。

けれど、もしそういう実感こそが
人の慎ましやかな心を育み、
その命を高みに導いてくれるのだとすれば、
やはり戸隠はパワースポットなのだと思う。

次に訪れるのはいつだろうか。

鎌倉に戻ればあっという間に
日常に埋没してしまうが、
戸隠という壮大な世界が
この世に同時に存在していることを、
知っているのと知らないのでは大違いだろう。

この景色をいつもどこかに感じていたいと思う。



かまくらのおと
白河 晃子


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