手作りの器

夫と子どもたちが作った器が焼き上がったと、数日前に陶芸家のれいさんから連絡があった。

鎌倉・寺分(てらぶん)にあるアトリエで、彼女が開催する器作りの会に参加したのは四月初めのこと。

完成した器は釜で焼いて仕上げてくださる。その工程に二ヶ月かかるはずだったが、想定より早く完成したらしい。はやる気持ちを抑えながら、れいさんのもとへ向かった。


アトリエは木造の平家で、到着するやいなや玄関の引き戸があき、れいさんが現れた。飾りっ気のない人で「さっきまで朝風呂でゆっくりしてたんです」とマイペースな一面を見せてくれる。クシャッとした笑顔には誰もが魅了されてしまうのではないか。

その手にはすでに作品を入れた大きな紙袋を抱えている。さっそく二人で軒先にかがみこみ、開けてみることになった。

最初に出てきたのは八歳の次男が作ったお茶碗だ。

わぁ・・・
青い釉薬がキラリと光る。
手のひらにのせると、ずっしり重い。


角度を変えたり、くるくる回してみると、光の加減で青の中から濃紺や茶が浮かび上がった。

手捻りのいびつさ、ごつごつとした触り心地。
大胆に傾斜した茶椀のふち。

まるで何かを作ることが大好きな息子がそのまま溢れ出ているようだ。

次に現れたのは夫が作ったお茶碗だった。

彼が選んだ白い釉薬は優しい雰囲気をまとっていて、次男が作ったものとは対照的に静かな印象だ。


お椀の絵柄のお魚はスタンプを押して描いたものだが、みんな同じ方向を向いて規則正しく並んでいる。

夫の几帳面な性格をそのまま表しているようで微笑ましくなった。

(ちなみに夫は洗濯物を平行に整然と干すタイプ。私は何も考えずにガタガタに干すタイプだ。)

最後に出てきたのは十歳長男の作品だ。

彼はお茶碗ではなくお皿を作った。
しかも朝ごはん専用のプレートだ。

お皿は3つのスペースに区切られ、一番広いところにはトーストをのせるらしい。
他の二つのスペースには、それぞれ「じゃむ」「バター」と書かれている。私には全くない発想に驚かされる。


彼が選んだ茶色い釉薬は重厚な印象を与えるが、陶土をかなり薄く伸ばしたようで、手に持ってみると見た目に反して軽やかだった。

家に持ち帰り、さっそく食器棚に並べてみる。
隣にはお気に入りの作家の器がある。

「プロがつくる器もいいけれど、手作りも良いじゃない。」

私は悦に入った。売っているものでは得られない何かがそこにあった。れいさんと一緒に作った思い出か。あるいは 、家族の息遣いがそのまま溶け込んでいるのかもしれないと思った。


我が家では食事の時に子どもたちも作家ものの器や骨董のお皿を使っている。そうするようにしたというのが正しいかもしれない。

ほんの少し前まで、どんなに雑に扱っても惜しくないプラスチックや安価なお皿を使っていたのだが、それに載せた料理はどうしても味気ないものになってしまう気がして、次男が小学生になる前に一掃したのだ。

逆に器さえ良ければ、たとえ料理が残り物や買ってきたお惣菜だったとしても、ぐんと見栄えが良くなり、美味しく感じられるようになるから不思議だ。私の小さな罪悪感もしっかりカバーしてくれる。

もちろん、子どもが誤って割ってしまうことがあり「あぁ・・・大切にしてたのに(高かったのに・・・)」と内心大きく落ち込むこともある。

が、それ以上に良質な器の手触りや毎日の食卓の景色から、彼らの中に育つものがあればいいなと思っている。

しかし、生活の道具を自分たちで作ったのは今回が初めてだ。

自分が作った器で毎日食事をする。
使う中で手に馴染み、生活に溶け込んでいく。

この経験は子どもたちに何をもたらすだろう。とても楽しみだ。

学校から帰ってきた子どもたちは、さっそく食器棚に器を見つけ目を輝かせた。
「いま使いたい!」「次はこんなお皿を作りたい!」とすでに大騒ぎしている。


かまくらのおと
白河 晃子

Recommend

Instagram

view Instagram