離れていることが、人と人とを近づける

今年はたくさんの梅仕事をしました。

初夏の爽やかな気候が人を動かすのでしょうか。
あるいは、流れゆく季節をこの手に感じたいという思いを、人はどこかに秘めているのでしょうか。

単純に買い過ぎてしまったという事情はさておき、しばらくの間、とり憑かれたように梅のことを考え、せっせと仕込んでいました。

青梅は数日で熟れていくので、手に入ったら早めに取り掛からないといけません。

黒糖の梅シロップに始まり、氷砂糖の梅シロップ。梅酒。梅干し。梅ジャム。

昨日もまた友人が、まるまるとした大きな青梅を分けてくださったので、一緒に梅シロップを仕込みました。

たくさんの人の手に触れた方が、仕上がりが美味しくなると彼女は言っていました。どんな違いが生じるのか、開けてみる日が楽しみです。

ガラス瓶に詰め込まれた梅と氷砂糖がきれい。今年はこれが最後になりそうです。


幼い頃、この季節になると冷蔵庫に梅シロップが現れました。

母方の祖母が毎年作っていたのです。

しかしながら、仕込んでいる様子を見たことがありません。
リビングの出窓に瓶が置かれていたような気はするのですが、かなり朧げな記憶です。

おそらく私が学校に行っている間に、すべて済ませていたのでしょう。

ある日突然現れる梅シロップに、私はパアッと目を輝かせました。

とろみを帯びた液体は琥珀色に輝いていて、すくって舐めると甘い香りが口の中に広がりました。

水で割るだけでなく、かき氷のシロップに使ったり、祖母が梅ゼリーにしてくれることもありました。
減ってしまうのが惜しくて、少しづつ大事に味わったものです。


梅シロップとは別に、祖母は必ず自分専用の梅酒も仕込んでいました。

とはいえ、お酒が強いわけではありません。
夕食時に小さなグラスで少しずつ嗜むのを楽しみにしていたようです。

隣に座る祖父の晩酌は決まってビール。アサヒスーパードライを好んでいました。

幼い私は二人の前に座り、料理が並ぶお皿の間に窮屈そうに置かれた梅酒とビールのグラスを、毎日眺めていました。

二人揃って顔を赤らめて、一日の中で一番ご機嫌な表情を浮かべていたかもしれません。

(梅ジャム。あまり上手くいかなかった… )


祖母も祖父も、もういません。
梅シロップや梅酒の思い出は、昔見ていた景色とともに、長い間記憶の底に沈んでいたように思います。

思い出したのはいつでしょう。
ある時、妹が送ってくれた梅酒がきっかけだったかかもしれません。

祖母譲りで料理の得意な妹は、なんでも器用に作るのです。

懐かしい記憶が蘇るとともに、そうか、私も自分で作ればいいのかと、大発見のように思いました。

今時なんでも購入する方が早いのでしょうが、それは手作りへの純粋な興味ではなく、丁寧な暮らしに憧れるからでもなく、祖母がしていたことを、ただ追いかてみたくなったのだと思います。

青梅を洗って丁寧に水を拭き、無心になり口を取っていると、慌ただしい生活に沈んだ心が、どんどん透明になっていくような気がします。

祖母も同じことを感じていたのかもしれないと思うと、嬉しくなります。

しばらくすると、たいてい次男が「僕もやる!」と寄ってくるので、二人で競うように作業を進めていくことになります。

家族と一緒に梅仕事をする時間は、また違う楽しさがあります。
そんな時、祖母から直接教えてもらえていたら、どんなによかっただろうと少し残念に思います。

(仕上がった梅シロップ。次男が「うめすけ」と名付けました。)


でも、その機会がなくなってしまったというのは大きな勘違いかもしれません。

「離れていることが、人と人とを近づける」

アラスカで活動されていた写真家・星野道夫さんの本にそう書かれていました。

星野さんの友人が、星野さんが結婚した際に奥さまの直子さんに贈った「アドバイス」だそうです。本当にその通りだと思いました。

この世界に生きている人を指していたのかもしれませんが、亡くなった人との関係もまた同じだと私は思います。

祖母は、私が物心ついてから一番最初に亡くなった家族だったので、一緒に過ごした時間は一番短いです。

ただ不思議なことに、誰よりも長くそばにいるような気がするのも、また祖母なのです。

私の中にある昔の景色や、祖母が作ってくれたものの記憶は、それがこの世界に存在していた時以上に、私と祖母を、今、深くつないでくれているに違いありません。

梅仕事もまた然り。

今年は何を作る?
分量は適当で大丈夫。
熟れ具合はどうかな。
完成まであとちょっと。楽しみですね。

今ようやく祖母と一緒に梅仕事をしているのだと思います。


かまくらのおと
白河 晃子

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