手紙

祖母が亡くなって1ヶ月半が過ぎた。

ふと寂しさが込み上げることもあるが、その起伏は日ごとに緩やかになっていくようだ。

外を見れば庭の草木は手のつけようもないほど生い茂り、強い日差しが照りつけている。
蝉の鳴き声は朝から晩までが賑やかだ。

この景色では落ち込んでばかりもいられない。
暑さにめっぽう弱いが、今年ばかりは夏の力に助けられていると思う。


父から近いうちに祖母の家の整理を始めるという連絡があった。

一人暮らしだった祖母の家をどうするか。父も長い間考えてきたようだ。

空き家にするわけにもいかないし、貸し出したとして管理も相応に手間がかかる。
いずれ売却することを前提に、動き出そうとしているように聞こえた。

家もなくなるのか・・・

せめぎ合う気持ちが起きるのは、人が亡くなる過程を、まだ見せてもらっている最中だからだろう。

寂しいけれど、仕方のないことだと思った。

色々と処分してしまう前に、必要なものがあれば持っていって欲しいというので、先日父と祖母の家を訪れた。

葬式の時以来だったが、もうずいぶん長い月日が経ったように感じられた。

小さな頃から何度も足を運んでいるので、玄関を入っただけで懐かしさが込み上げてくる。

家主を失った家はがらんとして侘しい空気が漂うと聞くことがあるが、そんなことはなかった。

部屋は生活していた時のまま残されていて、むしろ、まだ祖母が生きて存在しているかのようだ。

半年前まで約40年近くも住んでいたのだから、当然のことかもしれない。

玄関には木彫りの熊があり、食卓には三越のカタログが置かれ、トイレのドアには相田みつをの詩が飾られたままだ。

食器も本も衣類も、祖母が好んだように並んでいる。

この一ヶ月半、どんどん不確かなものに変わっていく祖母の面影を追ってばかりだったけれど、この家の景色はここに祖母が居たことをはっきりと思い出させてくれ安心した。

おもむろに、父が古いアルバムを取り出してきた。つい最近になって押し入れから見つかったそうだ。

祖母の若い頃の写真からつい数年前のものまで、丁寧に収められていた。

中には戦前の写真もある。大部分は初めて見るものではないだろうか。

歴史を感じさせる白黒の写真には、私の知らない時代が写っている。

ずっしりと重たいアルバムをめくりながら、父が「これは親戚の〇〇さん」「ここは〇〇だよ」と説明をしてくれた。そこには知っている人もいれば、知らない人もたくさんいた。

祖母自身は面影はあるものの、すまして立っている姿は別人のようだ。

友人たちと鎌倉を訪れている写真も見つけた。祖母は20歳ぐらいだろうか。長谷の大仏の前に並んでこちらに笑顔を向けている。

遠い日の祖母が急にとても近くに感じられた。

こんな風にアルバムをのぞかれて、祖母はどんな気持ちだろうか。

見るために残したのだろうが、祖母の大切な部分に踏み入っているようにも思われて、少し気が引ける思いがした。

もう一つ面白いものを、父が取り出してきた。

それは、私が祖母へ送った手紙の束だった。


私は5歳まで祖母と一緒に暮らしていたのだが、両親の離婚をきっかけに離れて暮らすようになり、その後の祖母とのやりとりはもっぱら手紙だったのだ。

一番古いものは6歳の時に書いた手紙のようだ。小学生一年生になった時のことを一生懸命伝えている。

「どっちぼーる」「しゅくだい」「めのけんさ」覚えたてのひらがなで書かれた文字が微笑ましい。スカートもつきましたと書かれているのは、祖母が送ってくれたのだろうか。

それぞれの封筒には受領した日付が、祖母の筆跡で記されている。

まさかこんな形で残されているとは思わなかったので驚いた。

筆まめな祖母からは、いつもすぐに返事が届いた。

たいてい葉書一枚に綴られていたが、私の気持ちを丸ごと受け止めてくれる簡潔な言葉に、何度励まされたことだろう。

丸みを帯びた筆跡は祖母そのものだ。
読み返すたびに祖母の気配が感じられることが嬉しかった。

手紙はいつも私から始まったので、楽しみにしているのは私ばかりと思っていたが、きっと祖母も同じぐらい楽しみに待っていてくれたに違いない。

(6歳の時に書いた手紙)

(読書家だった祖母の本棚には、筆跡が残る本もたくさん残されていた)


祖母の様子がおかしいと感じたのも、数年前の手紙がきっかけだった。

明らかに返事が遅くなったのだ。

気力の衰えとともに、今まで当たり前にできていたことが少しずつ億劫になっていたのだと思う。

一年前からはついに返事がこなくなった。

それでも電話をすると「手紙読んでいるよ、また送ってね」と言っていた。

手紙の束は、祖母が一日の長い時間を過ごしていた椅子の脇に置かれていたようだ。時々眺めてくれていたのだろうか。

それにしても過去の手紙には、さまざまなことが書きつけてある。

思春期特有の言葉遣いや、ひとりノリツッコミをしている文章、時には独り言をつらつらと綴っている時もあり、見ていてむず痒くなる。

が、学校での出来事、部活のこと、受験のこと、希望する高校に受かったこと、今夢中になっていること・・・思いのままに綴られた文章からは、真っ直ぐに生きていた幼い頃の私を垣間見ることができる。

私が小学生の頃は、まだインターネットもスマホもなかった。

一ヶ月に何度も手紙のやりとりをしている月もあり、私もそこそこ筆まめだったようだ。

便箋やハガキにも時代が偲ばれる。

そこに描かれたイラストにははっきりと覚えがあり、それらを大切に集めていた子どもの時の感情まで、まざまざと思い起こさせてくれた。

(漫画雑誌「りぼん」についていた付録の封筒と便箋に綴った手紙。懐かしい。)


結局この日はアルバムと手紙に耽り、あっという間に時間が過ぎてしまった。
整理しようと言いだした父も、物が出てくるたびに手が止まりなかなか進まないようだ。

しばらくは何度訪れても、同じことに陥りそうだと思った。

が、物理的な片付けをすることよりも、この家に残されたものを通して、祖母や過去の自分と出会っていくことが、当面必要な整理なのかもしれない。

私は手紙の束を持ち帰ることにした。


かまくらのおと
白河 晃子

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